【夏ヶ瀬 - 文集】

- 文学へ片想いしている -

三十五秒

真夜中。キッチンに立つと、いつも着信がある。出ると、見通しのきかない無音が現れ、部屋から音が消えてしまう。じっとして、音が戻るまで数えて待つと、三十五秒ある。 三十五秒で、人は、長い物語を生きることもできる。夜は港湾。停留所で待ち合わせ、空…

つきみの風

二番線のアナウンスが、列車の遅れを告げている。日暮れたあとのホームに入ってくるのは、出所の知れない夜風ばかりだ。ひと気のないホームでは、一軒の立食いの蕎麦屋がぽつん、と白い明かりを灯している。 夜風は暖簾をくぐる。入ってすぐのカウンターに、…

飛魚文士

旧家の二階、西向きの部屋では、文士がひとり。バネ仕掛けのように跳ねる手を操り、海色インクのペンを走らせていた。 「ほら!今、この行の上です。全読者の視点は、今ここに居合わせているのですよ!」 文士の操るペン先は、立ち上がる機微の波頭を捉え、…

貝のなかの夜

死んだ貝の、閉じた殻の中には、夜の波打ち際が残っていると聞いた。月はなく、べっとり重い砂と、波のように返す思いと、声をのみ込む闇とがあって、水平線は見えないだろう。 残された夜の海辺に、ひとたび立てば、波打ち際へ足跡をつけて、そこから先の、…

木製の月

冬は内から(コツコツと)、周囲へ向けて鑿《のみ》を当て、木彫りの夜を、彫って広げた。 ある日うっかり刃が当たり(一瞬の乾いた音)丸盆のような木製の月、真っ二つに割ってしまった。高らかに鳴り響いたその音は、幾多の星を吹き飛ばし、灯火の多々を打…

解のない海

私的な好意を舳先に結び、水底の月へ向け、釣り糸を垂れている。 寄る辺ない笹の舟。解のない海に浮く。 夜の、角度の浅いところでは、おとついの天気ガイド放送が、日付変更線を跨がずに、増幅や減衰をくり返し、いつまでも、いつまでもと、夜空に残ってい…

夜の同じ町

じっと目、見開いているうちに、月光色を帯びてきた、黒目その丸みある表層へ、きみの月探査船が着陸した。 誰も彼もが、宵のうちにいた。宵の口から、何処とも隣接しない町が現れ、皆ぽつり取り残されている。伸ばした手指には、クリスマスのツリー飾りが下…