三十五秒
真夜中。キッチンに立つと、いつも着信がある。出ると、見通しのきかない無音が現れ、部屋から音が消えてしまう。じっとして、音が戻るまで数えて待つと、三十五秒ある。
三十五秒で、人は、長い物語を生きることもできる。夜は港湾。停留所で待ち合わせ、空港を目指す。バスの曇った窓。単語をひとつ指で書き、袖で拭って消してしまう。窓の向こうには、音のしない稲光が走っている。
バスを降りて二人、小走りに駆け出す。フライト時刻の迫るチェックイン・カウンター。手続きの段になり、名前を持っていないことを指摘される。名前、名前、わたしの名前。名を持たぬわたしの演者は、一人空港に残された。搭乗した恋人は、預け荷物と一緒に機上の人になって、未来から消えて。わたし役の演者は、周回バスに戻って、座り、
三十五秒。ひとり、真夜中に立っている。キッチンに、換気扇の回る音が戻っている。
つきみの風
二番線のアナウンスが、列車の遅れを告げている。日暮れたあとのホームに入ってくるのは、出所の知れない夜風ばかりだ。ひと気のないホームでは、一軒の立食いの蕎麦屋がぽつん、と白い明かりを灯している。
夜風は暖簾をくぐる。入ってすぐのカウンターに、太い束の割り箸、鍋からの蒸気、お冷のコップ、七味缶、タッパーに刻み葱。(燗をつけるよう言ったのは誰なのか)
こんな夜です、月見の蕎麦をお願いします。つきみのきみを真ん中に浮かべ、縁のほうから手繰り、食べ、食べ、しばらくすすったあと、箸でつまめるほど甘くなった黄身を、いきなり真ん中で割るのが好みだ。溢れたきみの中心をくぐらせ、手繰っていくそばがいい。
月の崩れたつゆのみなもを、二番線の夜風が渡っている。遅れのまま、たぶん列車は到着しない。出所の知れない夜の風ばかり、ぽっかり口を開けたホームに続いている。
飛魚文士
旧家の二階、西向きの部屋では、文士がひとり。バネ仕掛けのように跳ねる手を操り、海色インクのペンを走らせていた。
「ほら!今、この行の上です。全読者の視点は、今ここに居合わせているのですよ!」
文士の操るペン先は、立ち上がる機微の波頭を捉え、ぎらりぎらり飛び魚の如く光り、輝きながらぐんぐん、紙面を進んでいる。
「ほら!ここを読んでいる!」
インクの魚影が桝目を飛び跳ねると、尖ったヒレが紙面を引っ掻き、それが句点や撥《は》ね払いとなって、あとに鋭く残った。
文士は叩きつけるようにペンを置いて立ち、「さあ、ご覧なさい!同じ行の者よ!」そう叫ぶと、一気に障子戸を開け放った。窓の向こうでは、鰯《いわし》雲が斜陽に赤く焼かれていた。
とたん「あ!」と声がして、文士が夕空へ転落していった。そして電線に引っかかり、動かなくなる様子が、窓の中で切り取られた。
貝のなかの夜
死んだ貝の、閉じた殻の中には、夜の波打ち際が残っていると聞いた。月はなく、べっとり重い砂と、波のように返す思いと、声をのみ込む闇とがあって、水平線は見えないだろう。
残された夜の海辺に、ひとたび立てば、波打ち際へ足跡をつけて、そこから先の、どこへも漕ぎ出たりはしないだろう。つけた足跡は波に何度でも消され、すべてが、ずっと、夜のまま。申告も告発も、発信や返信の言責も消えて、ただ素敵な秘密でい続けただろう。
なのに今朝、この素敵な貝の秘密を、うっかり味噌汁に混ぜてしまった。お椀の底に、夕景色の味噌溜まりができる。それは通学路の公園。自転車は長い影。さようならの声。
口をつぐもうとするたびに、砂のじゃりっとした音が鳴ってしまう。話したくないのに、静かでいることが、できなくなってしまう。
あゝ声になって、君にまで聞こえてしまう。
木製の月
冬は内から(コツコツと)、周囲へ向けて鑿《のみ》を当て、木彫りの夜を、彫って広げた。
ある日うっかり刃が当たり(一瞬の乾いた音)丸盆のような木製の月、真っ二つに割ってしまった。高らかに鳴り響いたその音は、幾多の星を吹き飛ばし、灯火の多々を打ち叩いて、夜光の一切を消し潰した。
閉じた夜の中で、高らかだった音は次第に鳴りの形を崩し、残響となってさまよい始めた。
いる、いない、も不確かになる。あとも、先もわからない所。時折り、残響が波形の線を光らせ、足首の高さに打ち寄せる。
波形は、足元を過ぎる際、くるぶしの後ろで(ちろちろという)か細い音の渦を巻いた。
また波形の線が寄せる。波は小さく渦を巻き、鈴を揺らすような音を立て、足首を握る。そこで勢いを失うと、またもとの後ろ姿に直って、暗い沖のほうへと返っていく。
解のない海
私的な好意を舳先に結び、水底の月へ向け、釣り糸を垂れている。
寄る辺ない笹の舟。解のない海に浮く。
夜の、角度の浅いところでは、おとついの天気ガイド放送が、日付変更線を跨がずに、増幅や減衰をくり返し、いつまでも、いつまでもと、夜空に残っている。
いまも放送は、昨日の空模様。上空は、昨日の語りにリソースを割いている。
暗い沖で、波頭のように走っていく線は、音のしない稲光だ。遠く遠く、無音のまま何度も起こる。事は始まる前からあって、個人で終われない現象と、告げるかのように。
心細く釣り糸を、水底の月へ向けて垂れている。寄る辺なきまま、笹の舟だ。沈んだ月を見下ろす、解のない海にぽつり、ぽつり。
見ればぽつりと、銘銘各個に舟が浮かぶ。皆、私的な好意を舳先に結び、水底の月へ向け、静かに釣り糸を垂れている。
夜の同じ町
じっと目、見開いているうちに、月光色を帯びてきた、黒目その丸みある表層へ、きみの月探査船が着陸した。
誰も彼もが、宵のうちにいた。宵の口から、何処とも隣接しない町が現れ、皆ぽつり取り残されている。伸ばした手指には、クリスマスのツリー飾りが下がって、肺からの呼吸に当たってぷらぷら、前後している。
皆、夜の同じ町に取り残される、そんな仕組みがあった。空へは同じ言葉しか昇らず、みな今日見る分の夢を買おうとして、何度か同じ思い出を売り、今を凌いでいる。ああ、あの日、はじまりの日。きみの船長は、君自身だったろうか。
黒目の中で、釣り合いを取っている。過去が地続きで、明くる日が変わらない。皆ひとりきり、夜の同じ町だ。君にきみの月探査船。ひとりずつ、夜の同じ町に。